熊野本宮大社は、和歌山県田辺市にある熊野三山の一つ。熊野三山とは熊野那智大社(那智勝浦町)、熊野速玉大社(新宮市)をさします。全国に約4,000社以上もある熊野神社の御本社でもあります。熊野三山を目指す参詣道は「熊野古道」と呼ばれ、世界遺産にも登録されています。
平安時代から江戸時代にかけて熊野は「蟻の熊野詣」と言われるように、多くの人々が熊野を目指しました。なぜ多くの人々が訪れたのか?それは、貴族や武士、庶民まで身分性別を問わず全ての人を受け入れたからです。無病息災、長寿、所願成就などのご利益を求めて、たくさんの人が熊野三山を詣でました。平安時代の末期には鳥羽上皇、後白河法皇、後鳥羽上皇などが何度も熊野三山に足を運んだという記録が残っています。
当時、都から熊野三山を詣でるには往復約600km、約1ヶ月の旅程を歩く必要がありました。また、現在と違い命がけの道程だったと言います。それほどまでに過酷な「熊野詣」は、黄泉の国にいき、生まれ変わり現世へ戻ることを意味していました。熊野三山が「蘇りの地」と呼ばれる所以はここにあります。

本宮大社の歴史
縁起には紀元前33年、大斎原(おおゆのはら)に社殿が建てられたとそるされています。そこにはある伝説が残っています。その伝説によると、大斎原のイチイの巨木に3体の月が降臨し、真ん中の月が「私は家都美御子大神(すさのおのみこと)であり、両側の月は伊邪那美命(いざなみのみこと)と速玉之男大神(はやたまのおのみこと)である。社殿をつくり、齋き祀れ」という神勅を与えたことから、大斎原に熊野本宮大社の社殿が創建された、と言い伝えられています。
現在は大斎原から500mほど離れた場所に本宮があります。旧社地である大斎原には日本一の高さの大鳥居が残り、中四社、下四社、境内摂末社の神々が祀られています。その理由は明治時代の大洪水。それまで本宮には能舞台なども備わっており、今の約8倍の規模でした。しかし明治22年の大洪水により、明治24年に大斎原から上四社が今の場所へ移設されたのです。平成になってからも、紀伊半島大水害により再び大斎原(おおゆのはら)や瑞鳳殿などが甚大な被害を受けましたが、平成26年には瑞鳳殿が再建されるなど復興を遂げています。
本宮大社を歩く
令和6年は、熊野古道が世界遺産に指定されて20年になります。鳥居の前には、これを示す説明が多く見られます。




鳥居をくぐると158段の石段が現れます。両脇には多くののぼりが見えます。また、生い茂る杉木立が悠久の歴史を感じさせます。



参拝
神門をくぐると檜皮葺の立派な社殿が姿をあらわします。
向かって左手の社殿が夫須美大神(ふすみのおおかみ)・速玉大神(はやたまのおおかみ)の両神。中央は主神の家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)。そして右手は天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られており、交通安全、大漁満足、家庭円満、夫婦和合、長寿の神として人々を迎え入れてきました。





神殿内の参拝順序は、次の通りです。
①証誠殿(本宮・第三殿) 家津美御子大神(素戔嗚尊)
②中御前(結宮・第二殿) 速玉大神
③西御前(結宮・第一殿) 夫須美大神
④東御前(若宮・第四殿) 天照大神
⑤満山社 結ひの神(八百萬の神)
本宮大社と八咫烏
八咫烏は、日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されている。また、太陽の化身ともされる。本宮大社では礼殿左手の御縣彦社(みあがたひこしゃ)にてお祀りされ、導きの神様・交通安全の神様として崇敬を集めています。サッカー日本代表のシンボルマークとしても有名です。本宮大社では、至るところに八咫烏(やたがらす)を見ることが出来ます。







大斎原
大斎原(おおゆのはら)は、熊野本宮大社のもともとの境内があった場所。熊野川と音無川の中州でしたが、明治22年(1889年)の洪水で社殿が流出、上四社は現在地に移築されました。この旧社地入り口には日本一の大鳥居があり、伏拝王子(ふしおがみおうじ)からもその姿を望むことができます。




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