上富田町市ノ瀬(いちのせ)にあるのが、熊野古道九十九王子の一つ一瀬(いちのせ)王子です。
朝来(あっそ)から、国道311号線に沿って北上し、右手に富田川を望みながら、市ノ瀬橋を渡ると、右手前方、河岸段丘によって作られた崖の上に台地が見える。この台地は辰巻城の城主山本氏の屋敷があった場所で、その後の坂本付城の場所である。稲葉根王子から富田川(古くは岩田川)を渡り、その後、今も残る清水谷川を渡ると一瀬王子にであう。
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歴史の中の一瀬王子
一瀬王子の名前が歴史に出てくるのは、建仁元年(1201年)藤原定家の「熊野道之間愚記」では、稲葉根王子をたって岩田川を渡り、市ノ瀬王子に詣り、また川を渡って鮎川王子に参っている。鮎川王子まで二度渡河したことになる。と書かれています。
承元四年(1210年)の「修明門院熊野御幸記」によれば、大雨の中稲葉根王子に奉幣参拝して市ノ瀬王子に渡り、輿に乗って一の瀬を渡り、水苔を避けながら二の瀬を渡り、鮎川王子に着いた。とあります、その後増水にもかかわらず、旅を強行したので第六瀬との間で激流にのまれ九人もの犠牲者を出してしまった。予想外の惨事であったので真砂で宿をとって休み、滝尻まで行ってはみたものの洪水でしばらくは渡れなかったという。六瀬まであったことは渡河点は六箇所あったということだろうか。
応永三四年(1427年)9月に書かれたと思われる僧実意の「熊野詣日記」には「次に稲葉根王子。次に昼養(ひるやしない=昼食の意味)の宿所に入る。馬はこの場所より停めて師に預け置き、これより歩いて、石田川(現在の富田川)を徒渉し、まず一瀬王子に参り、徒渉し次に鮎川王子に参る。川の間は紅葉の浅深の影が波に映じて・・・」と書かれています。
消えた一瀬王子
一瀬王子は上富田町市ノ瀬にある王子ですが、別名「藪中王子」とも言われた王子です。実は、江戸時代の寛文年間の検地の際に藪の中にあった王子跡が発見されたことが記録に残っています。
なぜ、一瀬王子が文献から消えたのか、今となっては想像するしかありませんが、平安時代、京都の公家が熊野詣でをしていた頃は、忠実に王子を巡り、歌会などをおこなっていたようですが、時代が過ぎ、武士の時代になると、熊野に詣でることが一般にも広がり、しきたりを重んじるより、近いルートを行動するようにもなったようです。田辺市三栖から、八上王子・稲葉根王子や一瀬王子を通らず、潮見峠を越えて、中辺路町高原に抜ける道。いわばショートカットが一般に普及したことが、一瀬王子が暦から消えた要因かもしれません。八上王子や稲葉根王子は、集落の中にある王子で、地域の人に守られたようですが、一瀬王子は、室町時代までは、近くに居住する地域の豪族山本氏の衰退も大きかったかもしれません。今は地域の人々が守ってくれています。
みどころ
下の写真を見て下さい、王子には、地域の俳人射場秀太郎の句碑があります
竹皮をしきりに脱いで一五子

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