日本一の大きなだるま像がある興禅寺(だるま寺)

興禅寺(上富田町)

だるま寺

上富田町市ノ瀬にある、大雄山興禅寺は地元では「だるま寺」として親しまれています。DARUMA CLUBという地域おこしの拠点でもあります。
ここを訪れて目につくのが左の写真の日本一と言われる大だるま座像です。しっかりと紹介します。

目次

興禅寺のこと

「大雄山 興禅寺」(こうぜんじ)は和歌山県南部の上富田町にある臨済宗妙心寺派の寺院。境内にある巨大なダルマ座像が有名で“だるま寺”の通称で親しまれています。本堂・庫裡の奥に回遊式庭園“天真苑”があります。臨済宗妙心寺派に属する寺院で、聖観世音菩薩立像<町指定文化財>をはじめ、興禅寺文書と呼ばれる古文書類が百点余りあり、この他多くの町指定文化財を有しています。庭園も回遊式ですばらしく、境内隣接地には1973年に建立された日本一の白いだるま座像があり、別名「だるま寺」と呼ばれています。

天真苑

歴史

現在地に移ったのは江戸時代初期の1666年(寛文6年)。当時の良遂宗真和尚は紀州徳川家・徳川頼宣や“安藤帯刀”の名で有名な紀伊国田辺藩藩主・安藤直清といった盟主にも信仰されたとか。聖観世音菩薩立像や寺伝を伝える100点以上の古文書が「興禅寺文書」として町指定文化財となっています。

その後、昭和の戦前戦後には荒れた時代もあったそうですが、(故)吉田啓堂和尚により再興。山門の前に鎮座する白いだるま像(平和達磨)は1972年〜1974年に建立されたもので、高さ5メートルの“だるま坐像”(座った姿)としては日本一なのだとか。またその白い外観はただのコンクリートやモルタルではなく、太平洋戦争の戦跡を100以上訪れ、そこで収集した遺骨や現地の砂を塗り込めて、世界の平和を祈願したもの。

だるま寺の由来

このお寺は、またの名を、“だるま寺”とも申します。なぜ、“だるま寺”というのでしょうか。それは今の啓堂和尚が昭和38年に、私たちの紀州から太平洋戦争に参加して、異国の土に化した英霊3万柱の御魂を慰めるため、三万三千三百三十三体のだるま像、を揮毫(きごう)することを決心し、すでに二万体余りの揮毫を終えており、かつ境内には太平洋戦争の戦蹟地1123カ所に詣でて、その地の土をもち帰り、これをぬりこめて作った高さ8メートル余りの日本一の“だるま像”が建立されていることから、遂に“だるま寺”と呼ばれるようになったということです。
 さて、この興禅寺の裏山に、第25代住職であった良遂和尚のお墓があります。良遂和尚は徳の高い名僧として知られており、紀州の初代藩主徳川頼宣公や、田辺城主であった安藤帯刀などの帰依(きえ)も厚かったと伝えられています。
 良遂和尚の墓が安藤帯刀によって建立されていることから見ても、これらのことは容易にうなずけましょう。

見所

本堂・庫裡の奥に吉田啓堂和尚が入寺した昭和時代中期に作庭された庭園“天真苑”があります。手前に白砂の枯山水、奥に斜面を活かした瀧石組とつつじ/サツキの刈込。そして奥の山の借景が美しい庭園!
その後、植栽が大きくなるとともに滝石組が隠れてしまっていたそうですが、近年修復剪定されその姿と借景が共に楽しめるようになりました。斜面のサツキ/つつじだけでなく、参道にはあじさい、そして頭上のモミジなど四季の花木を楽しむことができます。秋にはアサギマダラが飛来する丘も!

名馬興禅寺号伝説

 さて、この興禅寺の裏山に、第25代住職であった良遂和尚のお墓があります。良遂和尚は徳の高い名僧として知られており、紀州の初代藩主徳川頼宣公や、田辺城主であった安藤帯刀などの帰依(きえ)も厚かったと伝えられています。
 良遂和尚の墓が安藤帯刀によって建立されていることから見ても、これらのことは容易にうなずけましょう。
 この良遂和尚の墓のそばに、あたかも寄りそうようにして、一基の苔むしたお墓があります。その表側の下半分には、一頭の馬の姿が浮彫りにされており、上半分には「名馬興禅寺号之墓」と刻まれています。
 どうやらお馬の墓のようですが、それにしても和尚のお墓の傍に、お馬のそれが建てられているのはどうしたことでしょう。
 これには生涯を通じた人と馬とのほほえましいエピソードが残されているのです。良遂和尚に深く帰依していた紀州公は、ある日、一匹の名馬を寄進しました。法事などに招かれて、遠い山道を往来する和尚を送り迎えするように・・・という思召(おぼしめ)しからです。
 この名馬は、寺の名に因(ちな)んで「興禅寺号」と名付けられましたが、まことに賢い馬でした。和尚が出かける時には、チャンと装束を見てとり、玄関の脇にうずくまって乗り易い姿勢をとり、外から帰ってきたときも、うずくまって和尚が下りやすいようにするなど、そこらの人間も顔負けするほどの賢さです。
 そして用事のある時には、近くの村や田辺の城下までお使いをするのでした。ある時には手紙を書いてもたしてやると、帰りにはその背中にチャンと炭俵や米俵を積んで戻ってきます。
 またある時には、徳利を首にぶらさげてお酒を買いに行ったり、手紙を運んだりするなど、その働きは本当に人間以上で、和尚さんも我が子同様に可愛いがっていました。
 村人たちも「興禅寺号」がポカポカと道を歩いているのを見かけると、馬の好物である人参や大根などを背中や首にぶら下げてやるのが常となりました。
 すっかりなついた「興禅寺号」は、ますます賢さを発揮しました。
 馬小屋にはカンヌキもなく、放し飼いで、夜は小屋の中で休んでいますが、夜が明けてきて、勤行を知らせる鐘が鳴り出しますと、本堂の前へやってきて、お経の読む声にじっと聞きいっています。
 来客があると「興禅寺号」は一声、大きくいななきます。
 よくよく慣れてきますと、その声にもいろいろな調子があり、表の方からか裏の方からも訳ってきて、馬の鳴き具合で、和尚さんも小僧さんも大体の用事の見当をつけたというのですから、そこらの飼い犬も尻っ尾を巻いて
「こりゃ、かなワン、かなワン」
と啼いたとか、啼かなんだとか・・・という有様です。
 こうして「興禅寺号」は、一山はもとより村の人たちの人気の的になっていました。
 元禄9年の秋も深まる頃から、良遂和尚は床についている日が多くなりました。和尚も、もう80才になっていたのです。
 亡くなる日の朝、和尚は杖にすがって馬小屋までたどりつくと
「興禅寺号や、わしが死んだらお前もすぐに来いや」
と云い残し、やがて弟子たちに見とられながら息を引きとりました。
 亡くなる前まで馬のことを気にしており
「興禅寺号はわしの一番の友達じゃ。あいつが死んだら、わしの墓のそばに埋めてやってくれよ」
というのが遺言になりました。
 和尚の葬儀の時には、興禅寺号はその柩(ひつぎ)のそばにうなだれて付き添い、人々の涙をそそったということです。
 その日から興禅寺号は、馬小屋から一歩も出なくなりました。
 そして好物の人参も口にせず、和尚の四十九日の法要が営なまれる日の朝、眠るように死んでゆきました。
 元禄10年1月3日のことと伝えられます。
 その心根を哀れんで、馬にしては珍らしい葬儀が営なまれ、付近の寺の僧侶や村人たちが沢山お詣りをしたそうです。
 往時茫洋・・・・・・良遂和尚と興禅寺号は、いまも仲良く天国で遊んでいることでしょう。

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